水道筋の旧・よしみ亭は、平成30年2月1日より店名が
「 CAQULEGATO」(カクレガート)に代わりました。
詳細はこちらからどうぞ。https://fb.com/caqulegato/

このHPは「よしみ亭企画」
フリーライター田代吉美 の
HPとして生まれ変わりました。

食彩譚(1)はんぺんの思い出

平成30年2月14日、1週間の東京出張が始まった。2日以上も東京に連泊するは実に12年ぶり。まずは45年前の新聞を閲覧させてもらうため、六本木に事務所を構える水産系の新聞社を初訪問した。地下鉄の改札を出て名所喫茶アマンダのある六本木交差点に出たとたん、興ざめした。昼間だというのに、目に飛び込んでくるのは、居酒屋チェーンの無灯の看板ばかり。新宿、吉祥寺はもとより、神戸三宮でも馴染みの電飾が多く、異国感漂う不夜城・六本木のかつての面影はそこにはなかった。約束の時間より30分も早く到着したので、芋洗い坂の途中にあるコンビニのイートインスペースで休んでいた。冬の名物となっているレジ前のおでん鍋を見ると、ぷかぷかと白いおでん種が浮いている。なかなか神戸や大阪ではお目にかかれないが、東京生まれのわたしにとって、なつかしい光景でもあった。白いのは、はんぺんである。

新聞社での用事を済ませると、どうしても立ち寄りたかった先へすぐに足を向けた。目的地は日本橋室町の神茂(かんも)。銀座の百貨店・三越から徒歩5分の一等地に本店を構え、江戸時代の元禄元年から続く、創業320年のはんぺん屋さん。

鉄の陸橋となっている現在の日本橋の横に、「日本橋魚河岸跡」の記念碑が残されている。かつて日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸があった。江戸時代初期に徳川家康が大阪の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から腕の立つ漁師を呼び寄せ、隅田川河口を埋め立て住まわせ、佃煮を作らせた。その漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを、日本橋で売り出したことが魚河岸の始まりといわれている。はんぺんの老舗神茂が日本橋に残っている所以でもある。

かけだしの新聞記者だったころ、はんぺんの特集を任された。しかも初めての5日間の連載記事だった。最初の取材先が神茂。これまではんぺんといえば、業界最大手の紀文をはじめ、スーパーの店頭で1枚80~100円で売られているものしか知らなかった。神茂のはんぺんは1枚390円。原料は100%サメの白身。青サメとヨシキリサメを全国から取り寄せている。

大阪の白身魚に対し江戸はマグロ文化が主流。巻き網漁法では、マグロ以外にサメもいっしょに網にかかって水揚げされる。サメはほとんど捨てられていた。そのサメの白身を使って編み出されたのがはんぺんだった。紀文などが製造するはんぺんは、スケソウタラやイトヨリなど蒲鉾の原料となる白身魚を使っている。現代のはんぺんと老舗のはんぺんの大きな違いである。

原稿が出来上がると、必ず校正担当のチェックが入る。駆け出し記者の書いた原稿は、赤色鉛筆で真っ赤に書き直される。普段は記者の手元には戻ってこない。いつもどんなところを訂正されるのか、勉強のために印刷が終るとスタッフに頼んで見せてもらっていた。ある年の忘年会の宴席上、校正担当の大先輩に酔った勢いで質問した。「どうしたらいい記事がかけるのでしょうか」。ふだんは恐れ多くて話かけることができない方だった。「どうしたらいい記事が書けるか?その前に、どうしたら読者が読みやすくなるかって、まったく考えていないで書いているだろう。自分本位ではだめだ」と一喝された。それから赤い添削を見ながら、試行錯誤を繰り返した。

はんぺんの5日間の連載を書き上げたのは、一喝されてから半年ほど経過したころだった。掲載してからしばらくすると、校正担当の大先輩が業務を終えて帰宅するとき、階下のわたしの机までやってきた。「週末の休みに、思わず日本橋の神茂に行ってはんぺん買っきたよ。校正しているうちに、行ってみよう、どんな味だろうって思ったからね。いい記事ってのはこういうことじゃないか」。

記者として次のステージに上がるきっかけとなった、思い出のはんぺんである。

食彩譚(1)はんぺんの思い出(2018/2/17)日本橋・三越前

フリーライターとしての初航海

平成29年10月、今年で70周年を迎える大手食品会社の社主から、大変光栄な仕事を任されました。社史の編纂です。

「単に時系列に業歴をまとめるのではなく、社員のモチベーションを高めるような内容にしたい。創業者を祭り上げるような視点では、書かないでもらいたい」

3代目の社主からの依頼でした。大正5年生まれの創業者は、戦前、20代の若さでインド、天津へ渡りました。第二次世界大戦中は、天津に駐屯している日本軍に戦闘機を寄贈するほどの大成功を納めた人でした。ところが終戦で神戸に引揚げてくるときは、すべての財産は接収され裸一貫となったのです。ゼロから出発した創業者でしたが、生涯にわたり文字通りの質実剛健を実践されました。グループを含め1000億円規模にまで成長する企業となり、その礎を築かれました。

大阪市役所の裏手に、大阪府立中之島図書館があります。全国でもめずらしく、社史だけを集めたコーナーがあります。ありとあらゆるジャンルの企業が揃っています。参考にしようと思い、何度か通って数十社の社史に目を通しました。ところが、ほとんどの社史が創業者を持ち上げるように書かれています。それが社史の特性かもしれませんが、社員のモチベーションを高めることにはつながらないと感じました。

私は東京生まれの東京育ちです。神戸のことは何一つ知りませんし、ましてや古い時代はなおさらです。毎日にように図書館に通い、戦前、戦中、戦後の神戸や天津にまつわる文献を探しまわりました。戦後の神戸のヤミ市の取締りについて知るため、神戸大学の研究者のまとめた論文も取り寄せました。

私は、創業者の生い立ちとその時代背景を調べていくうちに、気づいたのです。ほとんどの社員が創業者を知らないのです。私と同じように多くの社員が、戦前、戦中、戦後の激動を生き抜いた会社の先輩たちの地道な苦労を知らなかったのです。

「歴史小説風にまとめよう」。創業者の生きてきた時代背景をより正確に記述することで、創業者や先人たちが体感したことを読み手もいっしょに体感できるだろう。どの時代の記述も臨場感あるものにしたい。社員や社員のご家族、そして関係者の方々が元気のでるような、そんな社史を目指すことにしました。

大正5年から昭和26年まで書いた時点で、執筆中の原稿を社主に読んでもらいました。

 「まさに一民間人から見た日本の近代商業史です。読む人を元気にする夢とロマンに溢れた立志伝でもあり、わくわくするような内容の面白さ、文章の緻密さ、上手さに感動しました」

フリーライターとしてスタートしたばかりで、つねに不安がつきまとっていますが、周囲から一番元気をもらっているのは、社史を編纂している私自身です。

(2018/02/12)