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フリーライター田代吉美のBlogあれこれ
(2018/03/30 寺山修辞学 更新)

ただいま、全力投球している社史編纂が最終段階に入りました。
5月の連休明けまで、ブログの更新をお休みさせていただきます。

寺山修辞学(3)

リチャード・ブローティガン

寺山修司と親交があり、生まれも同じ年だった人物のひとりに、米国の作家・詩人のリチャード・ブローティガンがいました。代表作『アメリカの鱒釣り』で知られ、日本にもファンが多い作家でもあります。作家・村上春樹も影響を受けたひとりです。
1983年5月、東京・青山で行われた寺山修司の葬儀のために訪日し参列したことは、親交の深さを物語っています。帰国する前、追悼として書かれた詩です。

あらゆる動きは止まりかたの一変形にすぎない

未来はいつも
ふたたび未来となることで
完結し
帰ってゆく、いつも
ふたたび過去となって

リチャード・ブローティガン

ここ東京の田中未知の家で
ある5月の夜
1983年

訳/谷川俊太郎

「あらゆる動きは止まりかたの一変形にすぎない」とこの詩の題(タイトル)をはじめて読んだとき、わたしの頭の中で何かが起きました。高校3年の秋の出来事です。毎日、当たり前のように動かしている手や足の動きが、「点」と「線」の関係と同じのように、映画フィルムの「一コマ」の静止画像がただつながっているだけなのだ。「現在」という単語を使わず、「現在」を表現しているブローディガンの短い詩に、深く共感しました。そして寺山修司の死が「止まりかたの一変形」とすれば、完全な死体となって静止したのです。

彼の少年時代は極貧の中で十分な教育も受けられなかったといわれています。どちらかといえば、アウトロー的、マイノリティ的な生活から彼の文学が生まれたのでした。寺山修司の亡くなった翌年の9月、アメリカの自宅でピストル自殺し、永遠に変わらない「止まりかたの一変形」を完成させてしまいました。

生が終わって死がはじまるのではない。
生が終われば死もまた終わってしまうのであある。
・・・・・寺山修司「誰か故郷を想はざる」

キャッチボールと友情

わたしは小学校時代、野球に明け暮れていたので、大人になった今でも野球が大好きです。東京から関西に住まいを移してからは、興味はプロ野球から高校野球に一変しました。音楽仲間の紹介で熱狂的な高校野球ファンのご夫婦と知り合ったからです。全国で繰り広げられる予選大会から、注目の選手を応援しているというから筋金入りです。一度、甲子園でいっしょに夏の全国高校野球選手権大会を観戦する機会がありました。テレビでは決して見ることができない試合前の両校の応援合戦など、甲子園に来ないとわからない高校野球の楽しみ方を教えてもらいました。それ以来、すっかり高校野球のファンになり、休みの日には自宅から甲子園までロードバイクで40分走って、熱戦を観戦しにいくようになりました。

平成30年1月4日、闘将で知られた野球人・星野仙一さんが亡くなりました。中日ドラゴンズの現役の投手だった頃の星野さんは、他の投手とまるで雰囲気の違う選手でした。野球少年だったわたしは、テレビの野球中継を通して彼の気迫を感じたのを今でも覚えています。時代は変わり、野球少年の減少に星野さんは危機感を抱いていていました。このままではプロ野球もアマチュア野球も衰退してしまう。野球人口の底上げをしなければいけないと訴えていました。

野球は一人でも練習することはできます。野球少年の頃はよく庭先でバットの素振りをしたり、近所の公園などの壁に向かってボール投げをしたりしました。そこに仲間がひとり増えると、キャッチボールができます。キャッチボールの基本は、相手の胸元めがけて投げること。野球の基礎であり、お互いにキャッチボールを繰り返すことでそこに「友情」や「信頼」が生まれてくるのです。

ところが球技禁止の張り紙をしていない公園を探すのは難しく、まして壁に向かってボール投げすることさえ、できなくなっています。

「最近の公園は危ないからってキャッチボールが禁止されているだろう。じゃあどこで最初に野球をやるんだ? 子どもたちが野球をやる場所がないなら作るしかない。そのためには費用がかかる。それなら例えばサッカーくじのようなものを考えてもいい」。星野さんは壮大なプランを本気で実現させようとしていました。日本の野球界は本当に大きな柱を1本失ってしまった。残念です。

友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である。
一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない。
受け取ったら投げ返す。
そのボールが空に描く弧が大きければ大きいほど
受けとるときの手ごたえもずっしりと重いというわけである。
それは現在人が失い欠けている「対話」を回復するための精神のスポーツである。
・・・・・寺山修司「人生なればこそ」

 

食彩譚(3)

ビッグマン

連想ゲームです。「ビッグマン」といったら何をイメージしますか?

東京出身のにわか関西人であるわたしの頭の中には、関西人であれば誰もが連想するものが一切浮かんできませんでした。大阪の「ビッグマン」は、東京の「忠犬ハチ公」なんです。大阪の中心地である梅田は、JR線、阪急電鉄、阪神電鉄、地下鉄の乗り入れる近畿圏の玄関口です。阪急梅田駅の中央改札を出ると、広いコンコースがあり、その一角に大型の液晶テレビが設置してあります。様々な広告が放映されているのですが、このテレビの名前が「ビッグマン」なのです。転勤で大阪にやってきたばかり頃、「梅田の待ち合せ場所の定番といえばビッグマンです」といわれても、何のことだかさっぱりわかりませんでした。

同じゲームを北海道でするとどうなるか。北海道で「ビッグマン」といえば、合同酒精製造の甲類焼酎「ビッグマン」を100人中100人が連想するというから驚きです。昨年一年間にスーパーマーケットで販売されたアルコール飲料の全国ランキングのトップ10をみると、5位に芋焼酎(黒霧島 1.8ℓ)、8位に麦焼酎(いいちこ1.8ℓ)と焼酎が2銘柄入りましたが、この他はすべてビールなんです。これを北海道、東北、首都圏、北関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州の10地区に分けて比較すると、北海道以外は、全国と同じように圧倒的にビールが上位を独占し、似たような顔ぶれの商品が出そろいます。ところが北海道は本場のサッポロビールと思いきや、一番売れているアルコール飲料は「ビッグマン」でした。しかも大きさは4ℓと大容量。北海道では上位20位の中に4つの銘柄の焼酎が入っているのですが、1位のビッグマンだけでなく4つとも4ℓと大容量でした。

「北海道の家庭ならどこでも、ごく普通にポンプ式の4ℓの甲類焼酎が常備してありますよ」。根っから道産子の知人は説明してくれましたが、なかなか信じられませんでした。

3月15日、出張で初めて函館に行く機会がありました。初日の仕事を終えてホテルにチェックインしたあと、「ビッグマン」の真偽を確認したくて近所を散策。スーパーマーケットが見当たらなかったのでコンビニに入ってみました。まさかコンビニにはないだろうと思っていたのですが、酒コーナーの一番下段に別の銘柄の4リットルの甲類焼酎が置いてあったのです。まさに百聞は一見にしかず。北海道はいろいろな意味で本当にデカかった。

2018/03/23 JR函館駅前にて

函館の血が1/8流れている

平成30年3月15日、1泊2日の出張で函館に行きました。生まれて初めての函館です。初日の取材の後、函館駅前のビジネスホテルにチェックインしたのが夜7時。その後、関係者との会議を兼ねた夕食会が2時間半。ビールの中ジョッキ1杯だけでは疲れはいやされず、気遣いでぐったり。2日目の朝8時半には迎えの車がくるので、自由時間はその前しかありませんでした。観光名所の函館朝市で海鮮丼を食べる選択肢もあったのですが、どうしても行きたい場所がありました。

まずは早朝5時から入浴できるというホテルの最上階(13階)にある大浴場へ行きました。まだ暗い朝の函館市内をガラス越しに眺めならが、これで日本三大夜景を堪能したと自分を納得させ、身支度を整えると6時36分の始発の路面電車に乗り、函館の名所である元町教会群に向かいました。

ハリストス正教会、聖ヨハネ教会、カトリック元町教会が高台に立ち並んでいます。荘厳な西洋式の建造物を目の前にすると、「ここは日本なのだろうか」と錯覚してしまうほどでした。行きたかったのはハリストス正教会でした。

高校時代は合唱部に所属していました。今から34年前、高校卒業後、合唱部の先輩に引っ張りこまれアマチュアの合唱団に入団しました。その先輩の中学校は合唱では全国的に有名な学校で、その卒業生を母体に設立された合唱団でした。毎年夏に定期演奏会を開催し、今年の7月で44回目となります。主宰者であり指揮者である先生も、すでに80歳を超えられました。

愛知県出身の先生の祖父が名古屋のハリストス正教会の牧師でした。先生もロシア正教会の信者です。大学卒業後、東京の公立中学校の音楽教諭として赴任されました。週末になると、日本正教会の総本山であるお茶の水駅前のニコライ堂(東京復活大聖堂)の聖歌隊の正指揮者として、長年にわたり日曜日の礼拝では指導もされていた方です。

わたしの家は仏教徒ですが、親類で不幸があったときになって「そうか、真言宗豊山派だったんだ」と再確認するくらいで、神や仏とは無縁の信仰心のない生活が続いています。

ロシア正教会の聖歌はすべて無伴奏で歌われます。オルガンなどの楽器を一切使わないのです。ロシア音楽のルーツの一つは正教会聖歌といわれています。16世紀以後、ロシアが取り組んだのが西欧化のもとで生まれた合唱聖歌です。斉唱(ユニゾン)ではなく、混声合唱として聖歌が教会で歌われているのです。19世紀以降、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ、ラフマニノフなどの大作曲家も、正教会聖歌を作曲しています。

「無伴奏の聖歌こそ、合唱の原点」という考えから、卒業生によって合唱団を設立する際、先生はひとつだけ条件を出しました。「演奏会を開催するときは、そのプログラムの中に、かならず1ステージだけロシア正教会の聖歌を取り上げてたい」。先生以外に信者がひとりもいない合唱団が、第1回から昨年の43回までのすべての演奏会で、ロシア正教会の聖歌を歌っているのです。わたしが参加したのが第10回からなので、わたしも今年で34年間も聖歌を歌い続けています。信仰心を持っていないわたしにとっては、ただ単なるコンサートとしての楽曲として歌っていました。ところが数年前に50歳を過ぎてから、少しずつ受け止め方に変化が生じています。信仰の有無、宗教の相違に関係なく、「生」や「死」について、40代のときよりも身近に感じているからもしれません。

祖母は函館生まれ。栃木出身の祖父と東京で出会い母が生まれました。残念ながら、祖母以前の函館のルーツや親類の有無も全くわかっていません。わたしの血には1/8函館の血が流れていることだけはわかっていました。旅べたのわたしが出張とはいえ、ルーツのひとつである函館の地に足をおろせたのは、神様か仏様の仕業だったのかもしれませんね。

追伸:日本正教会のHPで、ロシア正教会の聖歌を一部聞くことができます。ニコライ堂の聖歌隊に、信者でないわたしたちの合唱団(50人)も参加して録音した音源です。一般の人の立ち入りを許されていないニコライ堂ですが、司教様のはからいで録音のため特別礼拝堂に入らせていただいたことは大切な思い出のひとつです。視聴はこちらから

母校の校歌

ただしき教えまっすぐに こころにまいた種子の名は
その名も 古間木(ふるまき)小学校

(青森・三沢市立古間木小学校校歌/作詞・寺山修司)

3月と4月、卒業式、入学式で賑やかなになる季節です。全国の学校で校歌が高らかに歌われます。もしも自分の通った学校の校歌が有名な作家の作品だったら一生の思い出ですね。

ところが校歌をめぐる悲劇もあります。高校時代の同級生の自慢のひとつが小学校の校歌でした。田無(たなし)市立西原小学校校歌(現・西東京市)。「作詞は谷川俊太郎だったんだよ」と彼は懐かしそうに話しました。うらやましかったですね。

教室は宇宙船 どこへだってゆける
けやきのこずえに つづくあおぞら
大きなゆめをもとう 西原のぼくとわたし

さらに、隣接する西原第二小学校も谷川俊太郎の作詞。作曲はわたしの好きな作曲家・林光だったというから驚き。

けやきの はかげの ふるいみち
みちはむかしへ つづいてる
わらいながら おこりながら
いろんなひとの ふんだみち
ひとあし ひとあし あるいてゆこう

実は、この2校とも、17年前に取り壊されました。東京都内も児童数の減少が続いています。2校は統合され「けやき小学校」と改名。新校舎と新校歌の誕生で、谷川俊太郎作詞の2つの校歌がこの世から消えてしまったそうです。

教室は小さな国 なんだってできる
ひとりとひとりが 力合わせて
正しい世界めざす 西原のぼくとわたし

最後の卒業生はもう28歳なんですね。大人になった「ぼくとわたし」の目に今のこの「小さな国」は、どう映っているのでしょうか。

私には忘れてしまったものが一杯ある。
だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。
忘れることもまた、愛することだという気がするのである。
・・・・・寺山修司「ポケットに名言を」

(2018/03/02)

寺山修辞学(2)

原田芳雄の唄

18年前ですから平成12年の話。仕事帰りに一杯ひっかけて家に帰ろうと思い、ぶらぶらとJR阿佐ヶ谷駅(東京・杉並区)の駅前を散策していました。寺山さんが息を引き取った河北病院は、線路の反対側にありました。バーにもスナックにも見えるある1軒のお店が気になりました。店名が「阿呆船(「あほうせん)」。15世紀にドイツの作家セバスチャン・ブラントが書いた古典の題名ですが、寺山オタクのわたしにとっては、彼の書き下ろした戯曲「阿呆船」をすぐに思い浮かべました。その店に入ったとたん、自分の勘のするどさに驚きました。

6~7席ほどのカウンターだけの店。カウンターのガラスは取り外しが可能で、店主自らアレンジしたデコレーションがテーブルに埋め込んでありました。貝殻やビーズなどが散りばめられた中に、小さなポートレートが飾られていました。その写真が寺山修司だったからです。

店内は薄暗い照明だったため、日本髪が結えるほどの店主の長い黒髪がひときわアングラの雰囲気を演出していました。女性オーナーは北海道出身で、お店をはじめる前は、札幌でイベントを主催する企画事務所を経営。そのとき、寺山修司と出会い、いっしょに仕事もした間柄だったというのです。鳥肌が立ちました。

寺山修司との思い出を聞きに毎週のように通いました。寺山さんのパートナーであり寺山修司の元妻でプロデューサーだった九条今日子さんと寺山修司の実母との裏話なども教えてもらい、書籍だけでは知りえない寺山修司のもうひとつの顔を発見することができました。

一年ほど通った後、わたしの寺山オタクぶりに感心したのか、オーナーがA3の原稿用紙の入った封筒を手渡してくれました。
「差し上げられないけれど、もし必要であれば複写していいですよ」。
それは寺山修司の直筆の生原稿だったのです。彼が亡くなる前の1~3月頃に書かれたと思われる原稿でした。絶筆といわれている「墓場まで何マイル?」の後に書かれた可能性もあり、もしかしたら本当の意味での絶筆なのかもしれません。少なくとも同時期にかかれたものであるのは間違いないでしょう。

彼の親友でもある俳優の原田芳雄は、寺山修司が亡くなった5月4日の3日後、札幌でリサイタルを開きました。そのリサイタルを紹介する機関誌に掲載するため、寺山修司が公演の主催者に送った原稿なのです。その主催者が阿呆船のオーナーでした。
彼の生原稿を直接手にしたわたしは、オーナーのご厚意に甘え、複写させてもらいました。この時に立った鳥肌以上の鳥肌を経験することは、これからの人生ではもうできないかもしれません。

・・・・・・・・・・

原田芳雄の唄 寺山修司

世の中には二通りの人間がいる。
墓穴を掘るやつと、埋められるやつだ。

誰が言ったか忘れたが、そんな映画の台詞
があった。俺は、思わずにやりとした。
原田芳雄は、「墓穴を掘る」方の人間だ、
と思ったからである。
墓穴を掘る、というのはイメージとしては
暗い。虚無的だ。
だが、それでも労働には違いないのである。
うっすらと裸の胸に汗をにじませ、はだしで
墓穴を掘るときの原田は、なかなかセクシーだ。
そんなとき、原田はどんな唄をうたうのだろ
うか?
地の果てまで寝過ごした男。
目ざめると、そこは「悲しき熱帯」だ。

怠惰と誠実、ジゴロと無政府主義者、働き
者と三文詩人、・・・さまざまな対立を一つの
人格のなかで、対立のまま放置しておくとき、
原田は俳優となる。
正体をかくした「群衆の中の一つの顔」。
だが、かくしくれぬ生身の原田を俺は愛す
る。
ジョン・フォードの「男の敵」、「果てしな
い航路」「怒りの葡萄」のような、せつない男
の映画を演じられるのは、原田しかいないので
はないか。

原田のために書いた詩がある。
原田がコンサートで唄ってくれた唄である。

もう歌うなよ
あの唄は
もう忘れろよ
秋風に

それでもときどき気にかかる
同じ日、刑務所を出たあいつ
いま頃どうしているのだろか
いもうと訪ねて行ったきり

「りんご追分け」は好きだった
いつもひとりで唄ってた
そのうちおれもおぼえてた
まだ見ぬ津軽に
あこがれて
あこがれて

もう歌うなよ
あの唄は
もう忘れろよ
あんなやつ

原田の「りんご追分」は絶品である。世の
中には、やっぱり二通りの人間がいるのだ。
唄をうたうやつと、その詩を書くやつだ。

さて、俺の方は体をこわして、賭博ばっか
りやっている。
どうせ「埋められるやつ」には、先が見え
ている。底抜けにあかるい気分だが、一週間
に五日は病床で、あとの二日でできることは、
贈る花のことを考える位のものだ。
ききに行けないのが、ほんとうに残念だ、
残念だ、残念だ。

・・・・・・・・・・

寺山修司専用の原稿用紙に書かれた彼独特の文字に、
彼の死を予感することは出来ませんでしたが、
「残念だ、残念だ、残念だ」と3回繰り返す彼の言葉の行間に、
どうも、この世への未練、を感じとってしまいます。

2018/03/01(うるう年では02/29)

追伸:原田芳雄の誕生日はうるう年の昭和15年2月29日。残念ながらマンション建設のため、数年後に「阿呆船」は閉店しました。

寺山修辞学(1)

はじめに

高校3年生だった昭和58年5月4日。昼の番組の笑っていいともを見ていました。12時10分頃、画面の上にニュース速報が・・・。
「午後12時5分、作家・寺山修司が入院先の東京・杉並区阿佐ヶ谷の河北病院で死去」。
47年間演じてきた彼の一人芝居の幕が下ろされました。

人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ
・・・映画「さらば箱舟」

短歌、映画、演劇、エッセイ、童話、脚本、写真。
彼自身の「ことば」として、数々の作品が残されています。

私は肝硬変で死ぬだろう。そこのとだけははっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。

・・・「(絶筆)墓場まで何マイル?」

人間は死ぬべきときに死なず、ただその時期が来たら死ぬもんだ
・・・映画「さらば箱舟」

男はだれでも死について思っている。男にとって、「いかに死ぬべきか」という問いは、「いかに生くべきか」という問いよりも、はかるかに美的にひびくのだ。
・・・「ふしあわせという名の猫」

アンディ・ウォーホールのことばを借りて寺山修司に置き換えれば、
寺山修司のすべてを知りたければ、ぼくの詩や演劇や映画、
そしてぼくのただ表面を見るだけでいい。そこにぼくがいる。
その背景にはなにもないんだ。
って感じになるのでしょう。

人生には、答えは無数にある。しかし、質問はたった一度しか出来ない。
・・・「誰か故郷を想はざる」

「背広を着たまま飛びたい」というのは、私自身の哲学だったのである。
・・・「遊撃とその誇り」

今年(2018年)の5月4日の命日で、没後35年を迎えます。彼が亡くなった年齢を追い抜いて5年も過ぎてしましました。 彼の書籍をコレクションし始めて40年になろうとしています。蔵書数も300冊を超えました。 生前に発売された書籍の多くは増刷されず、書店から姿を消しています。コレクションの中から珍しい作品や彼の「ことば」をこのblog:寺山修辞学で紹介していきます。

彼が縫いとじてきたことばの重力を感じとりながら・・・

2018/03/02

食彩譚(2)

餃子と日本酒

40歳のとき、初めて経験したのが転勤。東京を離れ大阪に移住した。旅行といってもほとんど関東圏内で済ましていたので、根っからの東男(あづまおとこ)にとって未知の大阪での生活は驚きの連続だった。同じ日本人なのに、まるで外国人と接触しているような感覚。はじめの頃は、毎日の通勤電車で乗り合わせた人々が、すべて吉本の芸人にさえ思えるほどだった。笑いをこらえるので必死になったときもある。大阪のおばちゃん同士の会話は、もう漫才以外の何ものでもなかった。おっさん同士の口喧嘩は、もう任侠映画以外に考えられなかった。

カップ麺のマルちゃんの赤いきつねと緑のたぬきが、地域ごとに出汁の味を変えている。セブンイレブンやローソンのおでんのつゆも同じだ。全国展開している飲食チェーンも、東西でメニューを分けている先が増えている。餃子の王将もその1社だ。東京・西新宿の本社に勤務していた頃、仕事帰りによく晩飯を食べに行っていた。大阪に転居してからしばらくして、週末の休日にランチをしようと、自宅の近所にある餃子の王将に入った。メニューを見て思わず驚いてしまった。
「醤油ラーメンがない!」
数年前に、純国産の「日本ラーメン」という新メニューが登場して、東京風の醤油ラーメンが食べられるようになったが、それでも個人的には薄味で物足りない。関東以北の餃子の王将には、この「日本ラーメン」とは別の「醤油ラーメン」がちゃんとメニューに載っている。これが食べたいのだが・・・。

生まれも育ちも神戸という方に「醤油ラーメンならお勧めはあそこかな」と紹介されたお店に入った。大きな期待に胸を膨らませ、メニューも見ずに「ラーメンください」と注文した。出てきたどんぶりを見て思わず驚いてしまった。
「醤油ラーメンじゃない!」
明らかにとんこつスープ。店主に聞くと、関西では東京の濃い醤油ベースのラーメンは少なく、あっさり系の醤油ラーメンが多い。「醤油ラーメンと看板に書いてあったとしても、鶏がらスープではなくとんこつ醤油のケースが多いから気を付けたほうがいいよ」と逆にアドバイスをもらう始末だった。

東京の店舗でもよく見かける光景だが、席につくなり「まずは生ビールと餃子」という王道の注文。ところがこれは夕方以降での話。関東では、昼間からこのケースの注文をする人と出会う確率は極めて低い。関西に来て驚いたのは、昼でも夜でも一日中、「まずは生ビールと餃子」という王道の注文が飛び交っている。外食産業では今でこそ、“昼飲み”がトレンドのキーワードになっているが、まだまだ関東は関西に比べると“昼飲み”文化は未成熟だ。

先日の休日の昼間、どうしても餃子が食べたくなり、買い物ついでに神戸三宮まで出て、馴染みの店舗に入った。店員が注文を取りに近づいてきた。声を掛けられる前に「まずは生ビールと餃子」と先手を打ち、いかにも王将通っぽく振るまった。しばらくすると後から70代後半くらいと思われる男性がひとりで杖をつきながら入店し、ゆっくりとテーブルに座った。店員に注文を聞かれたその男性が、てっきり王道の注文をするかと思いきや、あまりの渋い注文に驚いてしまった。
「餃子と熱燗1本!」
すっかり古代遺産となってしまった、あの透明な徳利型のガラス瓶に入った日本酒。お猪口でちびちびやりながら、餃子をほうばる老人の振る舞いに、こころのなかで「ブラボー」と叫んだ。
それからというもの、餃子が食べたくなったわたしは
「とりあえず餃子と熱燗1本!」と注文している。

食彩譚(2)餃子と日本酒(2018/2/28)神戸・自宅にて

食彩譚(1)

はんぺんの思い出

平成30年2月14日、1週間の東京出張が始まった。2日以上も東京に連泊するは実に12年ぶり。まずは45年前の新聞を閲覧させてもらうため、六本木に事務所を構える水産系の新聞社を初訪問した。地下鉄の改札を出て名所喫茶アマンダのある六本木交差点に出たとたん、興ざめした。昼間だというのに、目に飛び込んでくるのは、居酒屋チェーンの無灯の看板ばかり。新宿、吉祥寺はもとより、神戸三宮でも馴染みの電飾が多く、異国感漂う不夜城・六本木のかつての面影はそこにはなかった。約束の時間より30分も早く到着したので、芋洗い坂の途中にあるコンビニのイートインスペースで休んでいた。冬の名物となっているレジ前のおでん鍋を見ると、ぷかぷかと白いおでん種が浮いている。なかなか神戸や大阪ではお目にかかれないが、東京生まれのわたしにとって、なつかしい光景でもあった。白いのは、はんぺんである。

新聞社での用事を済ませると、どうしても立ち寄りたかった先へすぐに足を向けた。目的地は日本橋室町の神茂(かんも)。銀座の百貨店・三越から徒歩5分の一等地に本店を構え、江戸時代の元禄元年から続く、創業320年のはんぺん屋さん。

鉄の陸橋となっている現在の日本橋の横に、「日本橋魚河岸跡」の記念碑が残されている。かつて日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸があった。江戸時代初期に徳川家康が大阪の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から腕の立つ漁師を呼び寄せ、隅田川河口を埋め立て住まわせ、佃煮を作らせた。その漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを、日本橋で売り出したことが魚河岸の始まりといわれている。はんぺんの老舗神茂が日本橋に残っている所以でもある。

かけだしの新聞記者だったころ、はんぺんの特集を任された。しかも初めての5日間の連載記事だった。最初の取材先が神茂。これまではんぺんといえば、業界最大手の紀文をはじめ、スーパーの店頭で1枚80~100円で売られているものしか知らなかった。神茂のはんぺんは1枚390円。原料は100%サメの白身。青サメとヨシキリサメを全国から取り寄せている。

大阪の白身魚に対し江戸はマグロ文化が主流。巻き網漁法では、マグロ以外にサメもいっしょに網にかかって水揚げされる。サメはほとんど捨てられていた。そのサメの白身を使って編み出されたのがはんぺんだった。紀文などが製造するはんぺんは、スケソウタラやイトヨリなど蒲鉾の原料となる白身魚を使っている。現代のはんぺんと老舗のはんぺんの大きな違いである。

原稿が出来上がると、必ず校正担当のチェックが入る。駆け出し記者の書いた原稿は、赤色鉛筆で真っ赤に書き直される。普段は記者の手元には戻ってこない。いつもどんなところを訂正されるのか、勉強のために印刷が終るとスタッフに頼んで見せてもらっていた。ある年の忘年会の宴席上、校正担当の大先輩に酔った勢いで質問した。「どうしたらいい記事がかけるのでしょうか」。ふだんは恐れ多くて話かけることができない方だった。「どうしたらいい記事が書けるか?その前に、どうしたら読者が読みやすくなるかって、まったく考えていないで書いているだろう。自分本位ではだめだ」と一喝された。それから赤い添削を見ながら、試行錯誤を繰り返した。

はんぺんの5日間の連載を書き上げたのは、一喝されてから半年ほど経過したころだった。掲載してからしばらくすると、校正担当の大先輩が業務を終えて帰宅するとき、階下のわたしの机までやってきた。「週末の休みに、思わず日本橋の神茂に行ってはんぺん買っきたよ。校正しているうちに、行ってみよう、どんな味だろうって思ったからね。いい記事ってのはこういうことじゃないか」。

記者として次のステージに上がるきっかけとなった、思い出のはんぺんである。

食彩譚(1)はんぺんの思い出(2018/2/17)日本橋・三越前にて