寺山修辞学(2)

原田芳雄の唄

18年前ですから平成12年の話。仕事帰りに一杯ひっかけて家に帰ろうと思い、ぶらぶらとJR阿佐ヶ谷駅(東京・杉並区)の駅前を散策していました。寺山さんが息を引き取った河北病院は、線路の反対側にありました。バーにもスナックにも見えるある1軒のお店が気になりました。店名が「阿呆船(「あほうせん)」。15世紀にドイツの作家セバスチャン・ブラントが書いた古典の題名ですが、寺山オタクのわたしにとっては、彼の書き下ろした戯曲「阿呆船」をすぐに思い浮かべました。その店に入ったとたん、自分の勘のするどさに驚きました。

6~7席ほどのカウンターだけの店。カウンターのガラスは取り外しが可能で、店主自らアレンジしたデコレーションがテーブルに埋め込んでありました。貝殻やビーズなどが散りばめられた中に、小さなポートレートが飾られていました。その写真が寺山修司だったからです。

店内は薄暗い照明だったため、日本髪が結えるほどの店主の長い黒髪がひときわアングラの雰囲気を演出していました。女性オーナーは北海道出身で、お店をはじめる前は、札幌でイベントを主催する企画事務所を経営。そのとき、寺山修司と出会い、いっしょに仕事もした間柄だったというのです。鳥肌が立ちました。

寺山修司との思い出を聞きに毎週のように通いました。寺山さんのパートナーであり寺山修司の元妻でプロデューサーだった九条今日子さんと寺山修司の実母との裏話なども教えてもらい、書籍だけでは知りえない寺山修司のもうひとつの顔を発見することができました。

一年ほど通った後、わたしの寺山オタクぶりに感心したのか、オーナーがA3の原稿用紙の入った封筒を手渡してくれました。
「差し上げられないけれど、もし必要であれば複写していいですよ」。
それは寺山修司の直筆の生原稿だったのです。彼が亡くなる前の1~3月頃に書かれたと思われる原稿でした。絶筆といわれている「墓場まで何マイル?」の後に書かれた可能性もあり、もしかしたら本当の意味での絶筆なのかもしれません。少なくとも同時期にかかれたものであるのは間違いないでしょう。

彼の親友でもある俳優の原田芳雄は、寺山修司が亡くなった5月4日の3日後、札幌でリサイタルを開きました。そのリサイタルを紹介する機関誌に掲載するため、寺山修司が公演の主催者に送った原稿なのです。その主催者が阿呆船のオーナーでした。
彼の生原稿を直接手にしたわたしは、オーナーのご厚意に甘え、複写させてもらいました。この時に立った鳥肌以上の鳥肌を経験することは、これからの人生ではもうできないかもしれません。

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原田芳雄の唄 寺山修司

世の中には二通りの人間がいる。
墓穴を掘るやつと、埋められるやつだ。

誰が言ったか忘れたが、そんな映画の台詞
があった。俺は、思わずにやりとした。
原田芳雄は、「墓穴を掘る」方の人間だ、
と思ったからである。
墓穴を掘る、というのはイメージとしては
暗い。虚無的だ。
だが、それでも労働には違いないのである。
うっすらと裸の胸に汗をにじませ、はだしで
墓穴を掘るときの原田は、なかなかセクシーだ。
そんなとき、原田はどんな唄をうたうのだろ
うか?
地の果てまで寝過ごした男。
目ざめると、そこは「悲しき熱帯」だ。

怠惰と誠実、ジゴロと無政府主義者、働き
者と三文詩人、・・・さまざまな対立を一つの
人格のなかで、対立のまま放置しておくとき、
原田は俳優となる。
正体をかくした「群衆の中の一つの顔」。
だが、かくしくれぬ生身の原田を俺は愛す
る。
ジョン・フォードの「男の敵」、「果てしな
い航路」「怒りの葡萄」のような、せつない男
の映画を演じられるのは、原田しかいないので
はないか。

原田のために書いた詩がある。
原田がコンサートで唄ってくれた唄である。

もう歌うなよ
あの唄は
もう忘れろよ
秋風に

それでもときどき気にかかる
同じ日、刑務所を出たあいつ
いま頃どうしているのだろか
いもうと訪ねて行ったきり

「りんご追分け」は好きだった
いつもひとりで唄ってた
そのうちおれもおぼえてた
まだ見ぬ津軽に
あこがれて
あこがれて

もう歌うなよ
あの唄は
もう忘れろよ
あんなやつ

原田の「りんご追分」は絶品である。世の
中には、やっぱり二通りの人間がいるのだ。
唄をうたうやつと、その詩を書くやつだ。

さて、俺の方は体をこわして、賭博ばっか
りやっている。
どうせ「埋められるやつ」には、先が見え
ている。底抜けにあかるい気分だが、一週間
に五日は病床で、あとの二日でできることは、
贈る花のことを考える位のものだ。
ききに行けないのが、ほんとうに残念だ、
残念だ、残念だ。

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寺山修司専用の原稿用紙に書かれた彼独特の文字に、
彼の死を予感することは出来ませんでしたが、
「残念だ、残念だ、残念だ」と3回繰り返す彼の言葉の行間に、
どうも、この世への未練、を感じとってしまいます。

2018/03/01(うるう年では02/29)

追伸:原田芳雄の誕生日はうるう年の昭和15年2月29日。残念ながらマンション建設のため、数年後に「阿呆船」は閉店しました。

寺山修辞学(1)

はじめに

高校3年生だった昭和58年5月4日。昼の番組の笑っていいともを見ていました。12時10分頃、画面の上にニュース速報が・・・。
「午後12時5分、作家・寺山修司が入院先の東京・杉並区阿佐ヶ谷の河北病院で死去」。
47年間演じてきた彼の一人芝居の幕が下ろされました。

人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ
・・・映画「さらば箱舟」

短歌、映画、演劇、エッセイ、童話、脚本、写真。
彼自身の「ことば」として、数々の作品が残されています。

私は肝硬変で死ぬだろう。そこのとだけははっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。

・・・「(絶筆)墓場まで何マイル?」

人間は死ぬべきときに死なず、ただその時期が来たら死ぬもんだ
・・・映画「さらば箱舟」

男はだれでも死について思っている。男にとって、「いかに死ぬべきか」という問いは、「いかに生くべきか」という問いよりも、はかるかに美的にひびくのだ。
・・・「ふしあわせという名の猫」

アンディ・ウォーホールのことばを借りて寺山修司に置き換えれば、
寺山修司のすべてを知りたければ、ぼくの詩や演劇や映画、
そしてぼくのただ表面を見るだけでいい。そこにぼくがいる。
その背景にはなにもないんだ。
って感じになるのでしょう。

人生には、答えは無数にある。しかし、質問はたった一度しか出来ない。
・・・「誰か故郷を想はざる」

「背広を着たまま飛びたい」というのは、私自身の哲学だったのである。
・・・「遊撃とその誇り」

今年(2018年)の5月4日の命日で、没後35年を迎えます。彼が亡くなった年齢を追い抜いて5年も過ぎてしましました。 彼の書籍をコレクションし始めて40年になろうとしています。蔵書数も300冊を超えました。 生前に発売された書籍の多くは増刷されず、書店から姿を消しています。コレクションの中から珍しい作品や彼の「ことば」をこのblog:寺山修辞学で紹介していきます。

彼が縫いとじてきたことばの重力を感じとりながら・・・

2018/03/02